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選ばなかった選択肢

1ヶ月以上空いてますがむしろ1ヶ月なら早いペースかもしれない。

 

さて、今回も先に引用をしておきます。

 

とても面白い記事でした。

私は絵は完全に独学ですが、体系的に学びたいと思うことがよくあり、その際美大に行けば学べるのかな~と漠然と思っていた時期もありますが、実際には違うようですね。

私は本業ではないですし、特に美大コンプレックスみたいなものもないのですが、例えばそういう人が欲しい情報って、記事にある通り美術専門学校みたいなところの方が揃えてるのかなと思います。

 

デッサンなんかは修練がものをいうので自分だけで完結できますが、表現方法や手法、あるいは歴史(?)なんかは完全に独学でやるのはなかなか難しいのではないかと思います。

他人の絵を見て吸収できる人とか、自分の表現だけでやっていける人はたくさんいらっしゃるので、必ずしも必要なわけではないですが...。

私は自分が興味があることに関してわからないことをわからないままにしておくのが嫌なので、「何を目的にした表現方法なんだろう?」とか「これだけしか描いていないのに、なんでちゃんと見えるんだろう?」とかそういうのが気になってしまうのです。

そういう時にちゃんと理論立てた説明があると私は理解がとても早くなるのですが、一方で絵やデザインをやってる方はそうした説明が苦手なのか、商売道具だから隠しているのか、なかなか情報が出てきません。

以前デザインについて調べた時も、UXを考慮してこうしましたとか、パターンの出し方とか、顧客の求めるものを具体化する方法とか...そういう書籍が多かったです。

もちろんそれはデザイナーとしてやっていく上で非常に重要な技術なんだと思うのですが、UXを考慮したこのデザインは何がどう良くてどうなるの?とか、そのパターンはいつどういう時どんな風に使うの?とか、顧客の要求に対してその技術を選んだのはなぜなの?というところが知りたいのです。

角を丸くすると優しい印象になる、画面が穏やかになるとか、その程度の情報で良いので下さい...となる場面が多く、そういう書籍はあまり見かけませんでした。

本当はそういう本もたくさんあると思うので、知っている方は教えて欲しいのですが、このように欲しい情報にたどり着くのに時間がかかってしまうところが、独学のネックだと思います。

 

いきなりかなり話が逸れました。

今回は技術的な話をしたかったのでも独学の話をしたかったのでもありません。

表題の通り、選ばなかった(選ばれなかった)選択肢についてのお話です。

 

選ばなかった選択肢というのはどうにも魅力的に見えるもので、あの時あっちを選んでいれば...という後悔は枚挙に暇がありません。

先の記事にも出てきていましたが「○○の時間を××に費やしていれば...」というのもそうです。

しかし、こういう感覚はえてして○○によって得られたものを持っているからこそ思うもので、××に時間を費やしていた場合○○は得られなかったし、○○に付随した他のものも全て得られなかったことになるのです。

そうすると、○○をやっていれば...と考えるわけで、要はないものねだりなのかなと考えています。

引用記事にも「選択肢自体に良し悪しはない」と書かれていましたが、全くその通りだと思います。

隣の芝生は青く見えるとか、逆の話ですっぱい葡萄とか、まあその手の話が昔から転がっているところを見るに、人間ってそういうものなのかなと思います。

 

選ばなかった選択肢は魅力的に見えること、選択肢自体に良し悪しがないことをちゃんと知っておかないと、いたずらに後悔を増やしてしまうことになりかねないので、自戒の念も込めて今回記事にしています。

私も頭では理解していてもやはりそう思うことは多々あるもので、あの時ああしていればどうなったのかなぁ、と物思いに耽ることもしばしばあります。

そういうのもある意味で楽しんでいるので、それはそれで良いのかなと思う部分もありますが、本当に心底後悔してしまうことが多い方は、もう少し生きやすく考えれば良いのにな...と思います。

例えばよく聞く話を挙げると、あの時遊んでないでもっと勉強しておけばよかったという話がありますよね。

勉強しておけば苦労することがなかった、もっと別の道があった...ということだと思いますが、一方でその時その瞬間遊ぶというのはとても重要なことでもあります。

物事には何でも旬があって、その時楽しめたことが後でも楽しめるとは限りません。

「その時楽しめた」というのは非常に素晴らしいことで、大変貴重なものです。

極端なことを言えば、「その時楽しめた」がずっと続けばずっと楽しいという考え方もありますし、それをネタに誰かと話せたとか、仲良くなったとか、こういうことをすれば楽しいんだと理解するとか...自分が無駄にしたと思っていることでも、気づいていないだけで様々なことを学習しているものです。

(その時特に楽しくもなかったのに続けてた…みたいな話もありますが、それはそれで経験のひとつです。)

そう考えれば、いたずらにあれは無駄だったとしてしまうことはとても勿体なく、また精神衛生上でも非常に良くないです。

その時楽しかった経験を後から否定してしまうと、自分を構成するもの...ひいては自分を否定することになるので、これが癖になると色んなことを嘘にしてしまい、自己肯定感が著しく下がります。

自己肯定感が下がると、どうせ自分なんか...と挑戦する意欲も下がりますし、こんなことしたって...と楽しいはずのことが楽しめなくなったりして非常に危険です。

仮に同じことをして同じ結果を得たとしても、後からの考え方で全然違う道が続いていきます。

結局その道を選んでいるのは自分なんですよね。

過去の出来事は変えられないですが、考え方でいくらでも意味を変えられるものでもあると思います。

 

そうは言ったところで何もかもに対してそんな風に思える訳もないし、"今の"自分がなりたい道に対して逸れる選択をしてしまっていた場合、どうしても後悔はしてしまいます。

(この記事を夜中に書いてるのもきっと明日の朝後悔するでしょう...。)

でも、ちょっとこういうことを知っているだけで、過去の自分を馬鹿だと責めたり、他の選択肢を選んだ人を羨んだりということは少なくなる、あるいは軽くできると思います。

後悔の循環に陥ることで怖いこととして自己肯定感の低下を挙げましたが、それ以外にも怖いのが、後悔を避けるような行動をしてしまうことです。

"良い"とされる流行だけを追うようになったり、楽しいことを無理に抑圧したり、リスクだけを見てリスクの低い方を選んだり...。

よく「後悔しない生き方をしよう」というフレーズがありますが、こういう行動を誘発してしまう為私はあまり好きではありません。

そういう意味ではないことはわかっていますが...「後悔しない生き方」ではなく「楽しい生き方」とか「嬉しいことが多い生き方」とかの方が良いんじゃないかと思います。

否定的な語を否定する構成がいかにも日本語な感もありますが、言葉は一旦考えなければならないものよりも、すぐに頭に入って定着する語の方が絶対に良いです(また話が逸れるのでこれ以上はやめときますが...笑)。

 

長くなってきたのでそろそろ話を畳みます。

今回選択肢の話を通して書きたかったのは、後悔の誘惑は至る所にあるので、それを理解した上で生きやすい考え方をしましょうということです。

生きやすい考え方、生きにくい考え方というのは確実にあると思っていますが、私の書いていることを鵜呑みにする必要は全くなく、自分にあったものを選んで身につけるのが良いと思います。

考え方というのは自分で選んで身につけられるものです。

人は簡単に変われないとか、考え方を変えるのは難しいとか、そういう「わかりやすく諦められる考え方」も世間には溢れていますが、それは自衛手段のひとつであって、それが世界の真理ということでは決してありません(これは決意表明に近いですが...)。

そういう擦れた考え方は所謂中二病高二病?)のひとつと思うと、なんだかチープに見えてきませんか。

人は変われると思ってる人が実際に変われたら、自分が選ばなかった方の考え方が羨ましく見えてこないでしょうか。

私も昔からこんな考え方だったわけではありませんし、多分これからも変わっていくと思います。

みんなが少しでも楽に生きられるようになれれば、その一助となれれば幸いです。

 

#読み返すと、お前誰やねんと言いたくなる感じでした。笑

 誰向けに書いているのかよくわからないし、なんか偉そう…。